管理職や幹部・事業責任者の募集を設計していると、条件を詰める前に金額のほうが先に出てくることがあります。「年俸500万円以上で考えています」——経営者からこう言われる場面です。
ここで「その金額では厳しいです」「相場はもっと上です」と返すと、たいてい話が止まります。根拠のない値上げ要求に聞こえるからです。かといって、そのまま募集を出して応募が来なければ、数か月を失います。
株式会社KD3が幹部採用の支援で使っているのは、相場で返さない方法です。「その金額で、いま誰がどこで働いていて、いくら貰っているか」を実在の求人から集計して、層に分解して返す。社内では「年収下限マトリックス」と呼んでいます。出しているのは相場ではなく到達層なので、経営者は金額の妥当性ではなく「どの層が欲しいか」を判断する話に移れます。この記事では、実案件での集計結果と、その前後で決めている項目まで公開します。
「年俸500万円以上で」に、相場で返さない
幹部・管理職の採用相談で、金額が先に出てくること自体はごく普通のことです。人件費の枠は先に決まっているのが実態で、そこから逆算して数字が出てきます。問題はその金額の是非ではなく、その金額が「どの層を採る前提の金額なのか」が誰も分からないまま募集に進んでしまうことです。
採用支援の現場でよく起きているのは、次の3パターンです。
- 相場で返して止まる——「相場は600万円です」と言った瞬間、金額の交渉になります。根拠を求められ、出典を出し、それでも「うちは500万円でやってきた」で終わります
- そのまま出して待つ——応募が来ないまま1か月が過ぎ、「媒体が悪いのでは」という話に流れます
- 役割を薄めて金額に合わせる——統括範囲を減らして金額に見合う役割に作り替えます。採用はできますが、当初の課題は残ります
どれも、金額の高い・安いを議論の土俵にしていることが共通しています。土俵を変えるのが、到達層で返すという方法です。
実在求人119件を層に分解する。500万円で主力として取れたのは2層だけ
実際の案件です。首都圏以外のある県で、飲食・スポーツ施設・物販ほか4つの事業を統括する事業責任者を募集する、という相談がありました。経営側から先に出てきた金額は「年俸500万円以上」です。
KD3が返したのは相場ではなく、その県で実際に掲載されている、管理職・責任者クラスの求人119件の集計でした。年収の下限で層に分け、「年俸500万円というラインの上には、どの職種の、どの水準の人が何層いるか」を並べた表です。結果はこうなりました。
- 年俸500万円で主力として取れるのは、飲食店の店長クラスとスポーツクラブの支配人クラスの2層のみ
- 複数事業を統括してきた経験のある層に届くのは、600万円から
この表には「500万円では採れません」という記述を入れていません。入れているのは、500万円のラインを横線で引いたとき、その上に何層が残るかだけです。今回であれば、線の上に2層。そこで問いが変わります。「その2層で足りますか」「4事業の統括を、飲食店長クラスの方に最初から任せますか」——金額の是非ではなく、役割と層の組み合わせの話になります。
実際のメールでも、最後は判断を戻す形にしています。
- 「金額の最終判断は貴社にお任せしますが、募集を出す前にこの点もあわせてご相談させていただきたい」
判断を返し、金額は動かさせない。上げるか下げるかは経営側が決めることで、採用支援側が決めることではありません。決めるための材料が「相場」だけだと判断できませんが、「到達層」なら判断できます。
なお、この集計は地域と職種を限った実査です。地域・職種が変われば層の切れ目も変わるので、金額そのものを他の案件に転用してはいけません。転用するのは「到達層で返す」という返し方のほうです。
外部データも、同じことを言っている
到達層という考え方は、社内の経験則だけで立っているわけではありません。転職市場の統計も、同じ構造を示しています。
パーソルキャリアの「転職による年収アップ成功者の傾向2026年版」(2026年8月24日発表)によれば、2025年10月〜2026年3月に転職した人のうち64.1%が年収アップしており、平均アップ金額は109万4,383円(平均年齢33.4歳)でした。職種別では企画・管理職の平均アップ金額が130万6,811円です。
これを採用側から読み替えると、こうなります。提示年収500万円の求人に主力として応募してくる層は、いま390万円前後で働いている人たちだということです(100万円前後のアップを見込んで動く層が多数派である、という意味において)。600万円を提示するなら、いま490万円前後の層。金額を100万円動かすというのは、届く層をまるごと一段入れ替えるという意味になります。
もう1つ、同じ調査で押さえておきたいのが転職パターン別の数字です。年収アップ率は異業種・同職種66.1%、同業種・同職種66.0%、同業種・異職種64.7%に対し、異業種・異職種は61.2%で最も低く出ています。複数事業の統括を任せる幹部採用は、候補者にとって「異業種・異職種」になりやすいポジションです。候補者側から見れば、最も年収が上がりにくいパターンに挑む転職だということです。役割の幅が広いほど、金額の説明は丁寧にする必要があります。
なお統計の母集団は転職エージェント利用者でホワイトカラー中心です。現場職の実態そのものではない点は留保が要ります。
到達層で返すと、判断が経営側に戻る
この返し方には、もう1つ副次的な効果があります。採用の可否ではなく、事業の設計の話に議論が移ることです。
先ほどの案件でも、「500万円では2層」という事実が共有された時点で、経営側から出てきたのは金額の話ではなく「では最初の3か月で任せる役割を2つに絞ろう」という話でした。4事業を同時に統括できる層に届かないのであれば、入口の役割を絞って、統括範囲を段階的に広げる設計にするという判断です。これは金額を上げるのと同じくらい有効な打ち手で、しかも人件費の枠を動かさずに実行できます。
別の案件では、グループ会社の次世代社長候補という募集で掲載28日で応募70名(応募単価2,790円・広告費約20万円)という結果が出ています。効いたのは金額ではなく、代表自身の言葉で書いた原稿と、「入口の仕事 → 責任者 → 社長候補」という入社後の道筋を明示したことでした。
ただし、この返し方は募集を出す前にしか使えません。掲載してから「実はこの金額では2層しか届きません」と持ち出すと、「最初に言ってほしかった」になります。最初のやり取りに入れるかどうかがすべてです。
募集を出す前に決め切る4項目
到達層の話と同時に、KD3が幹部・事業責任者の募集前に必ず詰めている項目が4つあります。年収の話だけを先に決めても、原稿が書けないからです。
- ①事業と役割——達成してほしい目標は何か。最初の3か月で任せる役割を2つに絞るとどれか。複数事業があるなら着手する順番はどうか
- ②権限と体制——価格・メニュー・イベント・現場スタッフの採用を、どこまで本人の裁量で決められるか。3か月・6か月・1年でそれぞれ何を任せるか
- ③条件——年収の内訳(基本給と役職手当)、雇用形態と肩書き、どの法人で雇用するか、営業時間に対する勤務時間と休日の実態、社宅・引越の扱い
- ④選考と書き方——面接の流れ、経営者本人のメッセージを載せるか、関連事業をどこまで書けるか
③の「どの法人で雇用するか」は、グループ会社や関連法人を持つ企業の幹部採用では必ず論点になります。条件の項目に最初から入れておかないと、内定間際に持ち上がって条件提示がやり直しになります。
③の雇用形態については、管理職・幹部の採用が難しいとき、「取締役」という募集条件を疑うで詳しく書いています。オーナー企業では「いっそ最初から取締役に」という提案が必ず出ますが、その狙いは執行役員でも満たせて、募集面では不利になりません。あわせて、時間外手当の扱いを求人票にどう書くかは管理職の求人票に「時間外手当の対象外」と書けるかは、採用権限で決まるで整理しています。年収の話と雇用形態の話は同時に決めないと、原稿の給与欄が書けません。
まとめ
- 幹部・管理職の募集で金額が先に出てきたとき、相場で返すと金額交渉になって止まります。返すのは相場ではなく「その額で誰に届くか」です
- 実案件では、ある県の管理職・責任者クラスの実在求人119件を年収の下限で層に分解しました。年俸500万円で主力として取れるのは2層のみ、複数事業を統括してきた層に届くのは600万円から、という結果です
- 外部統計も同じ構造を示します。転職者の64.1%が年収アップ・平均アップ金額109万4,383円(パーソルキャリア2026年版)。提示額を100万円動かすことは、届く層を一段入れ替えることと同義です
- 到達層で返すと、判断が経営側に戻り、議論が「金額」から「役割の設計」に移ります。入口の役割を絞って統括範囲を段階的に広げる設計は、人件費の枠を動かさずに実行できます
- この返し方は募集を出す前にしか使えません。掲載後に持ち出すと「最初に言ってほしかった」になります
- 募集前に決め切るのは①事業と役割②権限と体制③条件(年収の内訳・雇用形態・雇用する法人・勤務実態)④選考と書き方の4項目です
「年俸◯◯万円で採れますか」という問いには、そのままでは答えられません。答えられるのは「その金額だと、いまこの地域でこういう層に届きます。その層で足りますか」までです。金額は経営の判断で、到達層は事実です。この2つを混ぜないことが、幹部採用の入口でいちばん効きます。